1984年6月13日東京新聞 劇評 |
『桜の森の満開の下』
妖気漂う男と女の関係が…
東京新聞1984年6月13日より
桜の花の下には冷たい風がはりつめている。花の下は涯(はて)しがない。花の下は妙にしんと静かで妖気(ようき)が漂っている。坂口安吾の異常感覚にひかれてから、すでに数十年の歳月がたつが、いつこうに蓑えない。この感覚にとり憑(つ)かれて、私自身の花見気分は変わった。ながい間、この作品の劇的展開を観たいと願っていたが、はからずも広渡常敏が脚本を書いており、広渡自身が演出するので、大いに期待がかかった。夢が実現したのである。
時は中世、都を荒らしている物盗りの山男と、夫が切り殺されて山男のものになったわがまま女の物語。愛情の果てにどちらかが散らねばならない。和合円満というわけにはいかないところがおもしろい。他の男女の生首がうごめき、舞い踊る中に、ひしひしと事の終末が近づいてくる。
宮域康博の山男が、現代的で気どった蛮性がなく、好演。印象が深い。真野季節のわがまま女房も、晴れの主役に抜てきされて、その存在感が明確に打ち出されている。短い時間の舞台であるが、迫真力はあった。
大和心を人問わば、朝日に匂う山桜花と、中世の国文学者はほざいていたが、そのような心境と感情移入は、空虚な世界である。桜の森の満開の下には、すさまじい男女の関係があり、鬼と人間との闘争が永遠に展開する。その事件の指し示すものは、軍国体制と付和随行する大衆への、坂口安吾の抵抗だったように思う。
(詩人 長谷川龍生)