所属俳優に聞くかぎりで、広渡演出は近年ほとんど個々の俳優の具体的な演技指導をしないという。しかも彼は、芝居は俳優だよ、と言い捨てている。では、彼は俳優に何を求めているか。彼の言説は、ほぼ一貫して、観客へ向けてでなく俳優への呼びかけ問いかけである。主調底音を一つあげれば、「俳優はデテイルでは、演技という表現よりも、俳優自身に対する行為をする。俳優はそこで自身の内部へ落下していく。自身を投げ出して、自身の深い絶望の底で“役”の人物とむかいあう。もしかしたら、現実世界から剥離、脱落した、未知の自分、もう一人の自分とめぐりあえるかもしれない」と。
彼は繰り返し、身を投げ出すこと、落下することを強調する。それはポーランドの演出家グロトフスキーの求道的な身体訓練と共振するものだが、このカリスマ的な表現に俳優がついていけなくて絶望することを、ぼくは恐れない。
「堕ちるところまで堕ちよ」と坂口安吾もいっている。戦後演劇界の離合集散をみてきたものとして、演出家の思想と俳優の現実との乖離、その亀裂にリアリストでないもう一入のロマンティカー広渡常敏が絶望する日を怖れている。ロマン派文学は、その乖離そのものをほんとうに定着すれば文学たりうるが、観客という移り気な参加者の不可欠な演劇はそうではないからだ。だから、さしあたりぼくは、彼が亀裂をあるがままに押し切る強靱なイロニーの人であることをあえて欲する。
(1990年劇団パンフレット「イロニーの詩人/広渡常敏論の試み/岩波剛」より