2014年4月15日火曜日

終演後の劇団と成功させる会で打ち上げを行った

1966年初演、1984年パルコスペースパート3で新演出による衝撃的な再演。パルコの戦略もあったのではないかと思えるが写真週刊誌「フォーカス」にカラー見開きの記事として紹介された。
およそ半世紀にわたって国外での公演も含め再演を行ってきたが、昨年のルーマニア、モルドバでの海外公演を機にこの『櫻の森の満開の下』の公演を終了することを決めた。数年前の話しだった。
海外公演の後国内公演を組み立て2014年で打ち切る。やらないかとの情報は入っていた。
よもや広島の公演がファイナルになるとは思っていなかった。

終演後、広島公演を成功させる会のメンバーも一緒に舞台を片づけ、18時頃より広島市民劇場の事務所で劇団と成功させる会のメンバーとで打ち上げを行った。それが上記の写真この時点で劇団はまだ全員そろっていなかった。

2014年4月14日月曜日

ほぼ満席状態のファイナル公演

4月13日の最終公演、14時開演に12時過ぎ頃から列ができはじめた。
会場を15分早め、数列に並んだ写真右の列から順次入場をはじめたところ。
自由席少しでも良い席で観たいという思いの強さを感じる。正面前の席から集中するが、舞台中央が客席に張り出している、どの位置に座るか戸惑いもあったのではないだろうか。しかし見る位置の好みは色々ある。早くから後方席に陣取る人たちも幾人かある。
ほぼ満席状態でファイナル公演を開幕することができた。

2014年4月12日土曜日

自身を投げ出して、自身の深い絶望の底で“役”の人物とむかいあう


所属俳優に聞くかぎりで、広渡演出は近年ほとんど個々の俳優の具体的な演技指導をしないという。しかも彼は、芝居は俳優だよ、と言い捨てている。では、彼は俳優に何を求めているか。彼の言説は、ほぼ一貫して、観客へ向けてでなく俳優への呼びかけ問いかけである。主調底音を一つあげれば、「俳優はデテイルでは、演技という表現よりも、俳優自身に対する行為をする。俳優はそこで自身の内部へ落下していく。自身を投げ出して、自身の深い絶望の底で“役”の人物とむかいあう。もしかしたら、現実世界から剥離、脱落した、未知の自分、もう一人の自分とめぐりあえるかもしれない」と。
彼は繰り返し、身を投げ出すこと、落下することを強調する。それはポーランドの演出家グロトフスキーの求道的な身体訓練と共振するものだが、このカリスマ的な表現に俳優がついていけなくて絶望することを、ぼくは恐れない。
「堕ちるところまで堕ちよ」と坂口安吾もいっている。戦後演劇界の離合集散をみてきたものとして、演出家の思想と俳優の現実との乖離、その亀裂にリアリストでないもう一入のロマンティカー広渡常敏が絶望する日を怖れている。ロマン派文学は、その乖離そのものをほんとうに定着すれば文学たりうるが、観客という移り気な参加者の不可欠な演劇はそうではないからだ。だから、さしあたりぼくは、彼が亀裂をあるがままに押し切る強靱なイロニーの人であることをあえて欲する。
(1990年劇団パンフレット「イロニーの詩人/広渡常敏論の試み/岩波剛」より

2014年4月11日金曜日

花見客のいない上野の山の 満開の桜の下は冷気と静寂に支配されていた

終戦の年、東京は桜の季節に空襲に遭った。そのさまを作家坂口安吾(さかぐちあんご) が見ていた。
3月10日の大空襲の後、上野の山では焼け残った桜が花を咲かせた。だが花見客は一人もいない。風ばかりが吹き抜ける満開の桜の下は、冷気と静寂に支配されていた。安吾は、虚無の空間に魂が消え入っていくような不安感に襲われる。
終戦から2年後、安吾は、このときの恐ろしげな実感を、グロテスクで美しい傑作「桜の森の満開の下」に結実させた。桜の美の奥に潜むまがまがしさを描き出し、いまも多くの読者を魅了する。
(朝日新聞2006.4.7「ニッポン人・脈・記 満開の下たたえる妖気」より)

2014年4月8日火曜日

「氷を抱きしめたような」気分……ことばの内側へと、奥へと、視線が、思考が伸びていく

「わたしの重さがわかるのお前?」
鬼と化した女を殺し、男は呆然と座り込む。
「お前は淋しいってことがどういうことだか、わからないんだね? 淋しいということばを知らないんだね?」と女の声。
女は桜に埋もれていく。
「山賊のことばでなければいえないこともあるぜ!」と男は花びらを掻きわける。
男が山刀を抜いて空を切ると女の悲鳴。


山賊のことばでなければいえないことって、なんだろう?
この問いについてぼくらの思考をすすめることが、『桜の森の満開の下』の作品世界を考えることなのだ。坂口安吾は『文学のふるさと』のなかで「氷を抱きしめたような」気分と書きつけている。「絶望」や「孤独」ではぼくらの思考がそこで完結してしまいそうだが、「氷を抱きしめたような」気分となると、そのことばの内側へと、奥へと、ぼくらの視線が、思考が伸びていく。“山賊のことば” とはことばの奥へと分け入っていったところに浮上することばといえないだろうか? 文学というものは、普段ぼくらが日常生活のなかで口にしていることば、つまり社会に属していることばと骨身を削るような格闘を通して、創り出されることばの世界だと柄谷行人さんはいうのだが、坂口安吾は社会一般のモラルから限りなく“堕落” しようとするところに、文学を創りだそうとする。(『堕落論』一九四七年) 安吾によれば山賊のことばは、限りなく堕落をとげた地点に創りだされる文学のことばなのである。1999年、広渡常敏、「ナイーヴな世界へ ― ブレヒトの芝居小屋 稽古場の手帳」より。)

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 『櫻の森の満開の下』広島公演(東京演劇アンサンブル)

 坂口安吾=作  広渡常敏=脚本・演出  池辺晋一郎=音楽

 日時 2014年4月12日(土)19時開演
           13日(日)14時開演
 会場 広島県民文化センター (中区大手町一丁目)

 料金 2,999円   中高生以下1,000円(自由席)
     *未就学児は入場できません。

2014年4月7日月曜日

広島市民劇場6月例会 『樫の木坂四姉妹』の公演情報

広島市民劇場6月例会
俳優座公演 

樫の木坂

作=堀江安夫 
演出=袋正
わたし達の毎日からは
   一度だって八月九日が
       消えたことがなかとよ


●安佐南区民文化センター 
6月11日(水)18:30開演
6月12日(木)13:00開演 
●アステールプラザ大ホール 
6月13日(金)18:30開演 
6月14日(土)14:00開演 


出演=中村たつ 岩崎加根子 川口敦子  
   河原崎次郎 武正忠明 脇田康弘
   平田朝音 岩井なおみ 小澤英恵 齊藤奈々江 森根三和

死者が現在を生きる者の支えになる、ということが往々にしてある。遣り方は土地や風習で様々に違えど、どの民族もが先人の霊に敬虔な祈りの場を持っているのは、遥か昔からそのことを承知して来たからだろう。
この作品は長崎のひとつ屋根に身を寄せ合って生きる老三姉妹の物語だ。
しかし敢えて「四姉妹」としたのは、原爆で命を奪われた三女が、ある時は彼女等の行動を縛ったり、またある時は励まし慰めたりと、今尚くっきりと共に生きているからに他ならない。
堀江安夫

 http://shibaisuki.jimdo.com/ 広島市民劇場リニューアル準備中HP

2014年4月6日日曜日

4月例会『ロミオとジュリエット』例会の会場で受付


4月例会『ロミオとジュリエット』例会のアステールプラザ会場で『櫻の森の満開の下』の受付をする実行委員会のメンバー。

2014年4月4日金曜日

自分たちが風のごとくに自由で、さくらの花のように完壁であるがために、社会の定めや自らの弱点と闘う

「キシノウ・ジャーナル紙」より
イリナ・ネヒト(Irina Nechit)


広渡常敏演出、東京演劇アンサンブルによる「桜の森の満開の下」の舞台が、キシノウに結晶化した形でやって来た。この舞台は、生き生きとした新鮮さを保持しつつ、叙事詩的な日本の美学を魔法に近い領域にまで高め、そこに観客を引き込むことに成功した。

作品に出て来る男(公家義徳)と女(原口久美子)は、情熱や優しさ、哀れみを遥かに超えた絶対的な自由についての物語りを私たちに提示するのである。二人は、自分たちが風のごとくに自由で、さくらの花のように完壁であるがために、社会の定めや自らの弱点と闘うのである。

「日本文化の日々」は、山のさわやかな空気と人間の性につての真実、それはしばしば残酷であり、血に飢えており、天使に転身しうる可能性を秘めた悪魔を持っていることを語る勇気をキシノウに齎(もたら)してくれた。ウジェーヌ・イオネスコ劇場で土日に「桜の森の満開の下」の舞台を観た人々は、舞台の幻覚のようなイメージと、とくに神話に命を再び吹き込み、一過性のこの世の中の危険と予測不可能な現実を生きることへの恐怖を乗り越える力を与えてくれる役者の力を、長い時間忘れることはないであろう。(2013年6月)


“日本フェスティバル”
FESTIVALUL INTERNATIONAL AL ARTELOR SCENICE, BITEI-2013

2014年4月3日木曜日

東京演劇アンサンブル『櫻の森の満開の下』上演実績

東京演劇アンサンブル『櫻の森の満開の下』上演実績
脚本・演出/広渡常敏
表の左から、年、上演日程、ステージ数、公演地・劇場等

1966
3.43.10
7
俳優座劇場 -文芸小劇場-
  『櫻の森の満開の下』
  『門』檀一雄作、広渡常敏脚本
1984
6.86.15
10
パルコスペースパート3

10.510.14
12
ブレヒの芝居小屋

1986
7

徳島、岡山、尾道、周南、広島、松山

10.2310.25
3
久留米・福岡
アンサンブルを観る会

1987
9.199.20
3
呉・倉敷

1988


磐田、富士、長岡京、岡山

1989
9.89.10
3
ブレヒトの芝居小屋

1990
3.143.25
10
ニューヨーク、ラ・ママ

4.64.8
3
ブレヒトの芝居小屋

4.144.25
9
内子町ほか

1991
8.309.1
3
ブレヒトの芝居小屋

10.1110.13
5
ソウル、文芸会館/アジア大西洋演劇フェスティバル

1999
3.253.28
5
ブレヒトの芝居小屋

9.69.8
3
ウランウデ、
国立アカデミーオペラ劇場

9.149.18
5
ロンドン、バタシーアートセンター

11.611.8
5
新国立劇場小劇場

12.4
1
所沢

2005
2.182.22
5
ブレヒトの芝居小屋

3.123.13
2
ベルファスト、ウォーターフロントホール

3.163.19
3
ダブリン、サミュエルベケットシアター

3.223.23
3
コーク、グラナリーシアター

2007


ブレヒトの芝居小屋



新潟、高崎、前橋、沼田

2009


大宮

2010


ブレヒトの芝居小屋

2013
5月下旬~6月上旬

ルーマニア・シビウ国際演劇祭


モルドバ日本フェスティバル

8.279.1

ブレヒトの芝居小屋

2014
1.171.26

上田、松本、長野、伊那

4.84.13

倉敷、岡山、広島


2014年3月28日金曜日

汝、役者であるまえに人間であれ

ナイーヴな世界へ ブレヒトの芝居小屋 稽古場の手帳
2003年5月20日 影書房
ある時は芝居小屋に近いぼくの狭い汚い仕事部屋に、白いズック靴で先生がやって来られる。ぼくの落とす珈琲を飲みながら、先生はマイノリティーの生きざまについて、アマチュアリズムについて話された。“アマチュアリズム”ということばはなぜか、先生の口からは出なかったのだが、たぶん、ぼくらがあまりにも素人(しろうと)くさいグループだったからだろうか。だが久野先生は、汝、役者であるまえに人間であれという、芝居する者の、俳優のアイデンティティー(生きかた)について話された。スタニスラフスキーについての批判的な討論のなかでも、そのディテールの誠実さに、その即興にこそ、俳優の“素顔”が表出されることを先生は指摘される。「神は細部に宿り給う」のであった。ネジ曲げられ、中途にして挫折したスタニスラフスキー・システムの再生、蘇生へむけて注がれる、久野収の目の確かさに、ぼくは感動するばかりであった。 
(『ナイーヴな世界へ ― ブレヒトの芝居小屋 稽古場の手帳』「稽古場の久野収先生 1999.4.3」より)

2014年3月26日水曜日

冒頭から舞い散る桜の花びらは、ある時は嵐のように吹き荒れあらゆる存在を飲み込むように…… 感想2

2013年8月ブレヒトの芝居小屋公演感想

■坂口安吾作ということで期待していました。 壇一雄が脚色を依頼したということを知って、ますます興味を持ちました。予想以上にすばらしい舞台でした。歌舞伎を思わせる華麗さがあり、迫力がありました。オリエンタルであり、神秘的であり内容的には愛と憎は紙一重というようなことを考えてしまいました。見ることができてよかったです。公家さんはかっこよかった。理屈なく感動しました。(男性・54歳) 

■大人のドラマでした。昔の黒沢映画をみているような…。どこまでいくのか判らない面白さがありました。(男性) 

■演出がかっこ良かった。役者さんが後ろを向いていても、感情がみえるところがすごいです。 (女性・16歳)

 ■東京演劇アンサンブルの舞台を観るのも、ブレヒトの芝居小屋という劇場を訪れるのも初めてだったのですが、1時間あまりのそのスぺクタクルのダイナミックさと繊細さ、美しさと残酷さに目と心を惹きつけられた素晴らしい作品でした。特に、物語の冒頭から舞い散る桜の花びらは、ある時は嵐のように吹き荒れあらゆる存在を飲み込むように恐ろしく、最後はその静寂さから現生の夢と幻想を感じさせられ、男女の愛と孤独を描いている物語そのものを象徴しでいるようだった。(男性・30代)
a letter from the Ensemble No.107. 13.10.05より)
     ---・-・----・・・----・-・---
 『櫻の森の満開の下』広島公演(東京演劇アンサンブル)

 坂口安吾=作  広渡常敏=脚本・演出  池辺晋一郎=音楽


 日時 2014年4月12日(土)19時開演
           13日(日)14時開演
 会場 広島県民文化センター (中区大手町一丁目)

 料金 2,999円   中高生以下1,000円(自由席)
     *未就学児は入場できません。

2014年3月25日火曜日

淋しいという意味を考えさせられました 感想1

写真はNew York公演
2013年8月ブレヒトの芝居小屋公演感想

■前回観たときよりはるかに洗練されて、しかも野生的肉感的になっていて、心に迫ってくる力をもっている舞台でした。期待はしていましたがこれほど面白くなっているとは…遠くからきたかいがありました。(男性・56歳)

■迫力のある演技に吸い込まれるようでした! 淋しいという意味を考えさせられました。(女性・48歳)

■はじまりからド肝を抜かれました。美しすぎるものにどこか恐怖を感じるのは何となく共感できます。(女性・44歳)

■本日はありがとうございました。
ただ一言、すごい!! につきます。
すばらしい時間をすごさせていただきました。
(女性)

■今回予想外の激しい動きにおどろきました。
(男性・39歳)
a letter from the Ensemble No.107. 13.10.05より)

2014年3月22日土曜日

愛情の果てにどちらかが散らねばならない。和合円満というわけにはいかないところがおもしろい

1984年6月13日東京新聞 劇評
東京演劇アンサンブル
『桜の森の満開の下』
妖気漂う男と女の関係が…

東京新聞1984年6月13日より 
桜の花の下には冷たい風がはりつめている。花の下は涯(はて)しがない。花の下は妙にしんと静かで妖気(ようき)が漂っている。坂口安吾の異常感覚にひかれてから、すでに数十年の歳月がたつが、いつこうに蓑えない。この感覚にとり憑(つ)かれて、私自身の花見気分は変わった。
ながい間、この作品の劇的展開を観たいと願っていたが、はからずも広渡常敏が脚本を書いており、広渡自身が演出するので、大いに期待がかかった。夢が実現したのである。
時は中世、都を荒らしている物盗りの山男と、夫が切り殺されて山男のものになったわがまま女の物語。愛情の果てにどちらかが散らねばならない。和合円満というわけにはいかないところがおもしろい。他の男女の生首がうごめき、舞い踊る中に、ひしひしと事の終末が近づいてくる。
宮域康博の山男が、現代的で気どった蛮性がなく、好演。印象が深い。真野季節のわがまま女房も、晴れの主役に抜てきされて、その存在感が明確に打ち出されている。短い時間の舞台であるが、迫真力はあった。
大和心を人問わば、朝日に匂う山桜花と、中世の国文学者はほざいていたが、そのような心境と感情移入は、空虚な世界である。桜の森の満開の下には、すさまじい男女の関係があり、鬼と人間との闘争が永遠に展開する。その事件の指し示すものは、軍国体制と付和随行する大衆への、坂口安吾の抵抗だったように思う。
(詩人 長谷川龍生)

2014年3月21日金曜日

シビウ国際演劇フェスティバルの『櫻の森の満開の下』を取り上げたマガジンを見ることができます

前回紹介した阪本由貴さんの記事が掲載されたマガジンのPDFファイルがインターネット上に公開されているので紹介します。
http://www.sibfest.ro/#
にアクセスすると左上のページが開きます。
その画面の上部に並んだメニューの[FESTIVAL 2013]にカーソルを合わせると2枚目の画像の表示になります。



記号Aの部分をクリックすると演劇のメニューが開きスライドしていくと上部から3分の2程度の位置に『櫻の森の満開の下』が紹介されています。

記号Bの部分をクリックすると3枚目の画像の画面が開きます。フェスティバル期間中毎日発行されているようで『櫻の森の満開の下』は6月9日号の4・5・14ページに掲載されており4と14ページが阪本さんの記事で14ページのものが前回紹介したものです。
PDFにはダウンロード以外印刷も含めて全てセキュリティーがかかっていますので翻訳ソフトも使えませんが、興味のある方はダウンロードしてみられてはどうでしょうか。

2014年3月20日木曜日

「女性とは何か?」、「肉体と精神」、「人間の悲しみと孤独」について私たちに語りかけてくる

フェスティバルHPより画像の部分
男 公家義徳
ルーマニアの『シビウ国際演劇フェスティバル2013』で発行されている“aplauze”マガジン1記事の日本語訳が東京演劇アンサンブルから提供があったので紹介します。

BEING LOST IN A FLURRY OF CHERRY BLOSSOMS
桜の森の満開の下で

阪本由貴

フェスティバル初日、誰もがこの特別な日に何が起こるのか興奮して待ちかまえていた。東京演劇アンサンブルは、この20周年記念を飾る最初の舞台として驚くべきオープニングをもたらしてくれた。
かれらのパフォーマンス『桜の森の満開の下』は、高校の体育館で行われた。

会場は壁もすべて黒幕で覆われ、多くの場所に照明が吊られ、片側には客席が、もう一方には美しいダークブラウンの木の舞台がプラットホーム(B舞台)とともに設置された。ここが学校の体育館とは想像もできない。ステージの真ん中から両側に引幕が開かれると、満開の桜の美しい全屏風が現れた。それはいきなり私たちを日本の風景へ連れて行った。

物語は大きな衝撃とともに始まる。一組の男女が、金屏風を破って出てくる。空から降りしきる幾千もの桜の花びらとともに。その男は桜の森にすむ山賊で、彼は神秘的で美しいけれど残酷な女をその夫から略奪した。山賊は女の美しさを崇め、その女は男に人びとを殺して生首を持ってこさせる。彼が女のもとを離れようと心に決めたとき、女は夜叉に変わる。夜叉の息の根を止めたとき、彼はそれがあの美しい女の死体だということに気づいた。桜の花びらは更に激しく降り、死体は消え、男はとり残される。そして桜の森に女の悲鳴が響く。

わたしはこのパフオーマンスを外国の人びとがどのように感じるのかにとても興味をもった。アレクサンドル(シビウで演劇の勉強をする20才の学生)は、「とても興味深い物語だった。役者と振付がよかった。日本語の上演にもかかわらずストーリーがわかった。ストーリーが観客の心に残るということは、演劇において最も大切なことだと思います。」フライデリケ(タイタニック劇場の28才の女優)「わたしにとって、これが初めてのアジアのパフオーマンスだった。美術はとても美しかったし、効果や演技は素晴らしかった。すべてが完璧なタイミングだった。扇風機を抱えた裏方の人たちさえ、この舞台にたいへん効果的だった。」チョン(ちょうど演出の勉強を終えたばかりの27才)は「わたしは、彼らのバイオレンスの表現方法が好きです。音楽は演技や踊りにぴったりで、話し方さえこの舞台に大きな効果を生み出していた。私は歌舞伎風の白塗りのダンスが気に入りました。パフオーマンスは魅惑的で、始まりから終わりまですごいインパクトで、どの瞬間も集中して観ることができました。」

満開の桜の下では恐ろしいことが起きるという伝説に基づいたこの物語は、「女性とは何か?」、「肉体と精神」、「人間の悲しみと孤独」について私たちに語りかけてくる。上の方から降ってくる何千何万という桜の花びらは、空中で渦巻き、舞台に積もる。色によるバイオレンスの表現の美しさ、日本の歌舞伎の白塗と美しいコンテンポラリーダンスの調和、そして役者たちの素晴らしい情熱が、わたしたちをシビウから違う世界へ、神秘的な桜の森の満開の下へ誘った。(2003/06/09) 
「SIBIU INTERNATIONAL THEATRE FESTIVAL 2013」「aplauze」より