終戦の年、東京は桜の季節に空襲に遭った。そのさまを作家坂口安吾(さかぐちあんご) が見ていた。
3月10日の大空襲の後、上野の山では焼け残った桜が花を咲かせた。だが花見客は一人もいない。風ばかりが吹き抜ける満開の桜の下は、冷気と静寂に支配されていた。安吾は、虚無の空間に魂が消え入っていくような不安感に襲われる。
終戦から2年後、安吾は、このときの恐ろしげな実感を、グロテスクで美しい傑作「桜の森の満開の下」に結実させた。桜の美の奥に潜むまがまがしさを描き出し、いまも多くの読者を魅了する。
(朝日新聞2006.4.7「ニッポン人・脈・記 満開の下たたえる妖気」より)